▶かやのない夏、蚊に食われっぱなしの妻。その悩みを解くため、けんじゅつの先生が授けた驚きの作戦とは
かやのない夏、蚊に食われっぱなしの妻。その悩みを解くため、けんじゅつの先生が授けた驚きの作戦とは
教訓
真面目さが生む滑稽さ
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蒸し暑い江戸の夏。蚊帳を吊って眠る夜が、庶民にとってなによりの避暑でした。古典落語『蚊いくさ』は、そんな夏の夜を舞台にした、笑いの一席です。演目の名が示す通り、蚊と戦争を結びつけるという、なんとも大らかな発想の噺なんです。 主人公は八百屋を営む久六。ところが最近、剣術にすっかり入れ込んでしまって、商売はそっちのけです。女房はといえば、いかりしんとう。なにしろ蚊帳までしちに入れてしまったというんですから、夏の夜はおやこ揃って蚊に食われ放題という、なんとも情けないありさまなんです。 この噺を楽しむ上でまず押さえておきたいのが、「見立て」という落語の笑いの技法です。見立てとは、あるものを別のものに重ねて表現すること。江戸の庶民は、この言葉遊びをこよなく愛しました。『蚊いくさ』では、ちっぽけな長屋がまるごと城に見立てられ、蚊の群れが敵の大軍勢に仕立て上げられます。 注目してほしいのは、剣術の先生が使う言葉の格調高さです。大手・搦め手・物見櫓・狼煙・落ち武者——どれも軍記物に出てくる由緒ある言葉ばかり。それが蚊と戦う作戦に次々と当てはめられていく。その落差こそが、この噺の笑いの源なんです。そして久六がそれをおおまじめに受け取るところが、さらに可笑しい。 夏も盛りのある日、女房がついに爆発しました。「あなたのせいで蚊帳までしちに入れて、この夏は毎晩おやこで蚊に食われっぱなしじゃないですか。剣術だなんだと言ってる場合ですか」。久六はバツが悪そうに頭をかきます。さすがに言い返す言葉もありません。 仕方なく久六は、剣術の先生のもとへ稽古をやめる断りを入れに出かけました。道場の門をくぐりながら、どう切り出そうかと頭を悩ませています。剣術は好きだが、女房には勝てない。江戸の男の哀愁が漂います。 事情を聞いた先生は、しばらく考えてからこう言いました。「なるほど。それならば——蚊といくさをなさい」。久六は目を丸くします。「か……蚊、でございますか?」。先生は涼しい顔で、大きく頷きました。 先生は扇子を手に、堂々と戦略を授け始めました。「よいか久六。お前の家を城と見なせ。女房殿は北の方、御台所じゃ。息子は公達、若君である。表口が大手、裏口が搦め手。引き戸は物見櫓、家の前のどぶは堀とこころえよ」。久六は真剣な顔で、ひとつひとつ頷いています。 「夜になったら、すべての戸を開け放て。そして敵に向かってこう呼びかけるのじゃ。『やあやあ敵の面々、よく聞けい。当城においては今宵は蚊帳を吊らんぞや、来たれや来たれ』とな」。先生の口調は完全に軍議の将です。久六は息を呑んで聞き入っています。 「敵が安心して入り込んだところで、大手も搦め手も物見櫓も、すべて閉め切れ。そこで狼煙——蚊いぶしを焚くのじゃ。敵が苦しむ様子を見計らって開け放てば、敵は逃げ失せる。また閉め切る。これを繰り返せ」。先生の瞳には、本物の戦略家の光が宿っています。 「最後に——もし一匹二匹の落ち武者が残れば、これを打ち殺しなさい」。先生の言葉は揺るぎません。久六はぐっと拳を握りしめました。蚊一匹に対して、まるで残党狩りの覚悟です。 久六は胸を張って道場をあとにしました。先生から軍略を授かった武将の気分です。「なるほど、これが剣術のおうぎか。蚊なぞに負けるものか」。夕暮れの路地を、久六はいつになく堂々と歩いていきます。 夜になりました。久六はいよいよ作戦を開始します。表口の引き戸をがらりと開け放ち、夜の闇に向かって声を張り上げました。「やあやあ敵の面々、よく聞けい!当城においては今宵は蚊帳を吊らんぞや——来たれや、来たれ!」。近所の人が窓から顔を出しています。 蚊が十分に入り込んだと見るや、大手も搦め手も物見櫓も、すべてぴたりと閉め切りました。そして蚊いぶしに火をつけます。「狼煙を上げよ!」。煙が家中に漂い始め、蚊たちは苦しみもがきます。久六は腕を組んで、満足げに眺めています。 煙で追い出した後、戸を開け放ってしばらくすると、大半の蚊は逃げ去りました。しかし先生の言葉通り、一匹二匹の落ち武者が残っています。久六は紙を丸めた即席の武器を手に、じりじりと迫ります。「覚悟!」——ぴしゃり。残党を見事に打ち取りました。 女房は一部始終を、腕を組んで眺めていました。「あなた……それが剣術の成果ですか」。久六は振り返り、胸を張って言いました。「先生じきじきの軍略じゃ。見事に敵をしりぞけたであろう」。女房はため息をひとつ。でも、その夜は確かに蚊が少なかったのです。 『蚊いくさ』の面白さは、剣術の先生が完全におおまじめであることにあります。蚊を敵軍に見立てる発想は滑稽でありながら、軍記物の言葉を使えば使うほど妙な説得力が生まれてくる。久六がそれを信じ切っているのが、また可笑しい。江戸の夏の夜の空気と笑いが詰まった、軽妙洒脱な一席です。 今日お伝えした『蚊いくさ』のあらすじはほんの骨格に過ぎません。実際の高座では、久六のおおまじめな口調と女房の切れ味、そして先生の格調ある語り口が三位一体となって、笑いが積み重なっていきます。ぜひ一度、噺家さんの高座でその醍醐味を味わってみてください。