▶引っ越し祝いに友人を誘っておきながら、ひとり飲み続けた男の話、ご存知ですか?
引っ越し祝いに友人を誘っておきながら、ひとり飲み続けた男の話、ご存知ですか?
教訓
自分勝手さに気づかない者ほど滑稽
ナレーション全文を読む
「一人酒盛」。引っ越し祝いに友人を誘っておきながら、結局ひとりで飲み続けた男の話です。三遊亭圓生、桂米朝、柳家小さん、桂枝雀など、錚々たる名人たちが高座にかけてきた、滑稽噺の一席です。登場人物はたったの二人。なのに、笑いの密度は相当なものがあります。 この演目が長く愛されてきた理由はシンプルです。「誘っておきながら一滴も飲ませない」という状況の理不尽さが、積み重なるほどに笑いに変わっていくからです。そして最後には、加害者が被害者にそのまま罪をなすりつけるという、身勝手さの駄目押しが待っています。日常にひそむ自分勝手な人間の本質を、笑いのなかに鋭く切り取った一席です。 「一人酒盛」は上方(大阪・京都)でも江戸でも演じられてきた、間口の広い滑稽噺です。江戸時代の庶民にとって、引っ越しを意味する宿替えは近所づきあいの節目であり、手伝いに来た相手に酒を振る舞うのは当然の礼儀とされていました。その礼儀を丸ごと踏み倒す男の振る舞いが、当時の観客には一層滑稽に映ったはずです。 宿替えの荷運びがようやく片付き、手伝いに来てくれた、吉さんと男はひと息ついていました。「吉さん、今日はご苦労さん。まあ一杯やろうじゃないか」男はごきげんでそう切り出します。疲れた体に酒の誘いは何より嬉しい。吉さんも「それはありがたい」と腰を落ち着けました。 「吉さん、悪いけど燗をつけてくれないか」吉さんは言われるまま台所に立ち、せっせと徳利を温め始めました。ところが男はといえば、さかずきを手に持ったままじっと座っているばかり。自分で動こうとする気配がまるでありません。 吉さんが燗をつけて持ってくると、男はひと口飲んでこう言います。「ぬるいな。もう少し熱くしてくれ」。吉さんはまた台所に引き返します。再び持ってくれば「今度は少しあつすぎる。もう一度」。その間も男は手酌でどんどん飲み進めます。吉さんのさかずきはまだからのままです。 燗がようやく落ち着いたと思ったら、今度は「吉さん、悪いけど刺身をひとつとってきてくれないか」。買い物の使いまでさせ始めました。吉さんはため息をひとつついて、また立ち上がります。ようやく戻ってくれば、「じゃあ今度はぬかみその漬物を切ってくれないか」。 吉さんが「そろそろ私にも一杯……」と口を開こうとするたびに、男は絶妙なタイミングで次の用事を差し込みます。「あ、そうだ吉さん、ちょっとあれをとってくれないか」。さかずきは吉さんの手が届きそうになった瞬間、いつも遠のいていきます。これが偶然でないことは、だんだん明らかになってきます。 いいかげんにしびれを切らした吉さんが、ついに声を荒げます。「あなた、私はまだ一杯も飲んでいませんよ!」すると酔いの回った男は、きょとんとした顔でこう返します。「そうかい?お前、さけぐせが悪いから遠慮してたんだよ」——理屈になっていないにも程がある言い訳です。 言い合いになると、酔った男はさらに開き直ります。「そんなに飲みたいなら帰れ、うちで飲む必要はない」。呆れ果てた吉さんはついに「結構です」と立ち上がり、荷物をまとめて出ていってしまいました。男はそれでも悠々とひとりで飲み続けます。 ひとりになった男がなおもごきげんで飲んでいると、表をうどん屋が通りかかりました。出前のうどん屋です。男は声をかけます。「ちょっとちょっと、お前さん、少し聞いておくれよ」。うどん屋は足を止め、何事かと耳を傾けます。 男はうどん屋に向かって、しみじみとこう語ります。「いやぁ、さっきまでうちに来ていた男がねえ、さけぐせが悪くて困ったよ。まったく、お前さんもああいう人間には気をつけなよ」。吉さんは一滴も飲んでいません。飲んでいたのは男だけです。——それがこの噺のオチです。 「一人酒盛」の笑いどころは、大きく二つあります。一つ目は「誘っておきながら一滴も飲ませない」という理不尽の積み上げです。燗のやり直し、買い物の使い、漬け物切り——吉さんにかかる負荷は増える一方なのに、さかずきは永遠に渡りません。この圧力が高まるほど、観客の笑いと共感も大きくなります。二つ目は、加害者がそのまま被害者に罪をなすりつける、身勝手さの駄目押しです。酒を一滴も飲ませてもらえなかった吉さんが「さけぐせが悪い」と断じられる——この倒錯した理屈が、笑いと同時に、人間の身勝手さへの鋭い皮肉になっています。高座では、男の「なんとなく自覚がない」感じをどこまでのびのびと演じるかが聴き比べのポイント。名人たちがそれぞれどんな「困った男」を造形しているか、実際の音源でぜひ確かめてみてください。