野ざらし

野ざらし▶
滑稽噺

のざらしという古い落語を知っていますか。江戸の庶民の笑いがたっぷり詰まった、とっておきの一席です。

のざらしという古い落語を知っていますか。江戸の庶民の笑いがたっぷり詰まった、とっておきの一席です。

教訓

人の幸運にあやかろうとする欲が、最大の笑いを生む

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古典落語『野ざらし』。上方では「骨釣り」とも呼ばれるこの一席は、江戸の庶民の笑いをたっぷりと詰め込んだ滑稽噺です。原話は遠く中国・みんだいのしょうわほん『笑府』にさかのぼり、海を渡って江戸へ翻案されました。なお、松尾芭蕉の紀行文『野ざらし紀行』とは全くの別作品ですので、どうかお間違えなく。 この噺が長く愛されてきた理由は、とびきりわかりやすい笑いの構造にあります。「人が得た幸運にあやかろうとして、空回りする」——誰もが身に覚えのある可笑しさです。幽霊が出てくるのに怖くない、むしろ愛らしい。そんな不思議な味わいが、この一席の持ち味なんです。 この噺の笑いは、ふたりの男の対比から生まれます。誠実で堅物の浪人・清十郎と、威勢はいいが下心まるだしの八五郎。清十郎は善意で骨を供養し、その誠実さが幽霊を引き寄せた。一方の八五郎は、その話を聞いて「自分も同じことをすれば美女が来るはず」と踏んだわけです。注目してほしいのは、清十郎の動機と八五郎の動機が、まるで正反対だという点です。 本編で特に聞かせどころとなるのが、八五郎が骨を釣りに行こうと決めてから向島へ向かう道中の場面です。まだ何も起きていないのに、頭の中では美女との出会いを先取りしてもりあがり、一人でブツブツと妄想を口にしながら歩いていく。この空回りした浮かれっぷりが、高座最大の笑いどころです。落語ならではの、語り手ひとりでなんやくも演じる醍醐味が凝縮された場面ですよ。 長屋に暮らす浪人・尾形清十郎は、堅物でとおっている初老の武士です。ある日、隅田川・向島あたりへひとり釣りに出かけました。江戸の秋、かわもは静かで、釣り糸を垂れるにはちょうどいいひよりです。清十郎はいつものように無口に竿を構え、ただ黙々とみなもを見つめていました。 ところが釣れたのは魚ではなく、野ざらしになっていた髑髏——人の骸骨でした。さすがの清十郎も、これには少々驚きます。しかし気味悪がってそのまま放り捨てるのも忍びない。「成仏もできずに川べりで朽ちているとは、気の毒なことよ」と、清十郎はその骸骨を近くの寺へ持って行き、手厚く供養してやりました。 その夜のことです。清十郎の部屋から、若い女の声が聞こえてきました。隣に住む八五郎が壁の隙間からこっそり覗いてみると、色っぽい美しい女が清十郎のそばに座っているではありませんか。驚いた八五郎、目を丸くして一晩中覗き続けます。 翌朝、我慢できなくなった八五郎が清十郎に問い詰めます。「昨夜の女は何者でございますか」と。清十郎はしぶしぶ、ことの次第を話して聞かせました。「あれは自分が供養してやった骨の幽霊が、礼に来たのだ」と。堅物の清十郎が淡々と語る幽霊の話に、八五郎はただただ目を丸くするばかりです。 これを聞いた八五郎、たちまち色気を出しました。「なるほど、骨を釣り上げて供養してやれば、美しい幽霊が礼に来るのか。それなら自分も骨を釣ってみよう」と。清十郎の誠実な善意など、まるで頭にありません。頭の中にあるのは、美女との出会いだけです。 さっそく八五郎は道具屋へ走り、釣り道具一式をどっさり買い込みます。竿に糸に錘に針、全部そろえて意気揚々。いよいよ向島へ骨釣りに出発です。 向島への道中、八五郎はもう止まりません。まだ骨ひとつ釣っていないのに、頭の中では美女との出会いがすっかり始まっています。「もしかしてお武家様のお知り合いで?」「いや、商人のお嬢さんかもしれない」などと、一人でブツブツ妄想を語りながら歩いていく。これが高座での最大の笑いどころ。演じる噺家の語り口次第で、笑いが何倍にも膨らむ場面です。 川岸に着いた八五郎ですが、そう簡単に骸骨が見つかるわけがありません。じれた八五郎は竿を構えるより先に、地面をあちこち掘り回して骨を探しはじめます。その必死さが、かえって滑稽さを際立てていきます。 しまいには焦りが頂点に達した八五郎、慌てて竿を振り回した拍子に、自分の鼻に釣り針を引っかけてしまいます。川岸に響くのは八五郎の情けない悲鳴だけ。幽霊が来るどころか、骨のひとかけらも見当たりません。 高座ではこの場面あたりで切り上げられることが多く、美女の幽霊が現れるところまで演じられることは少ないといいます。それでいて笑いは十分に完結している。なぜなら、この噺の本質は「人の幸運にあやかろうとして空回りする滑稽さ」にあるからです。幽霊は、むしろ二の次なんですね。 古典落語『野ざらし』。原話は中国・みんだいのしょうわほんに始まり、江戸の庶民の笑いとして磨き上げられた一席です。幽霊が出るのに怖くなく、道中の妄想だけで笑いが成立してしまう。これが落語という芸の奥深さです。ぜひ機会があれば、好きな噺家の高座でじっくりお楽しみください。