▶見知らぬ女に与えたごりょうの金が、三年後に自分の命を救う。ご存じですか?
見知らぬ女に与えたごりょうの金が、三年後に自分の命を救う。ご存じですか?
教訓
情けは人の為ならず
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佃祭。舞台は江戸の夏、隅田川の河口に浮かぶ小さな島、佃島の住吉神社で催される祭礼です。この演目は「人情噺」の傑作として、古くから名人上手が好んで演じてきた一席。今も志ん生、文楽、談志といった錚々たる噺家たちが競い合うように高座にかけてきた、落語の中でも格別の演目です。 落語には数多くの演目がありますが、『佃祭』が特別なのは、前半の人情噺と後半の爆笑劇が一つに繋がる構成の妙にあります。ほんの5両の情けが、数年後に自分自身の命を救う。そして最後には、江戸落語らしい早合点の勘違いが待っている。「情けは人の為ならず」という言葉の意味を、これほど鮮やかに描いた噺は他にありません。 この噺の構造上の面白さは「時間の跳躍」です。三年前、吾妻橋で身投げしようとしていた女に、主人公・次郎兵衛が五両を恵んで思いとどまらせた——この過去の出来事が、後半すべての伏線になっています。本人はすっかり忘れていたささやかな親切が、思わぬ形で自分自身に返ってくる。この「忘れた頃の恩返し」こそが、人情噺としての骨格です。 そして最大の見どころは、後半のどんでん返しです。人情噺でありながら、最後は爆笑の連続。船が転覆し死んだと思われた男が何も知らず深夜に帰宅すると、長屋中が「幽霊が出た」と大騒ぎになります。誤解が解けたと思ったら、今度は早合点の与太郎が同じ手口を真似ようとして空回りする——泣かせておいて最後は盛大に笑わせる、江戸落語の真骨頂がここにあります。 神田お玉ヶ池で小間物問屋を営む次郎兵衛は、大の祭り好き。この日も佃島の住吉神社で開かれる佃祭りへ出かけるにあたり、「暮六つの終い船には必ず乗って、今日中に帰ってくるから」と家族に言い置いて、勇んで店を出ました。 佃祭りを存分に楽しんだ次郎兵衛、約束通り暮六つの終い船に乗ろうと渡し場に急ぎます。ところが船はすでに客でいっぱい。それでも乗り込もうと足をかけたその時、後ろから見知らぬ女に袖を引かれ、呼び止められてしまいました。 女は次郎兵衛の顔を見るなり、涙ぐみながら言いました。「三年前、吾妻橋で身投げしようとしていた私に、五両ものお金を恵んでくださったのはあなた様ではございませんか」。次郎兵衛はすっかり忘れていましたが、言われてみれば確かにそんなこともあった気がします。話しているうちに、乗るはずだった終い船は満員のまま出て行ってしまいました。 女は次郎兵衛をどうしても家に上げたいと言って聞きません。「せめてお酒の一杯でも、佃煮の一つでも」と、無理やり座敷に上げてもてなします。次郎兵衛はもう今夜は帰れないと気もそぞろでしたが、恩人への義理もあり、断りきれずに酒や肴をご馳走になっていました。 ちょうどその頃、次郎兵衛が乗るはずだった終い船が、客を乗せすぎたまま強風にあおられ大川で転覆。乗客はほとんど助からなかったという知らせが、江戸中を駆け巡りました。もし女に呼び止められていなければ、次郎兵衛もあの船の中にいたはずでした。 その夜遅く、次郎兵衛の家では大騒ぎになっていました。終い船の転覆事故の話を聞き、乗っていたに違いないと思い込んだ長屋の連中が、すでに弔いの支度を始めていたのです。お坊さんも呼ばれ、お経が読み上げられる中、家族も涙にくれていました。 そこへ、何も知らない次郎兵衛が「ただいま」と帰ってきました。弔いの真っ最中だった長屋の連中は、これを見てひっくり返らんばかりに仰天します。「幽霊が出た!」と一同腰を抜かし、大騒動。次郎兵衛は何が何やらわからず、きょとんとするばかりでした。 事情を聞いた一同、ようやく胸をなでおろします。三年前に見知らぬ女を助けた五両の情けが、巡り巡って自分の命を救ったのだと知り、居合わせたお坊さんも大きくうなずきました。「これぞまさに因果応報。良い行いをすれば、必ず良い報いがある」。 この評判の一部始終を小耳に挟んだのが、長屋の与太郎です。話をよく聞かず、「なるほど、身投げする女に金をやれば、自分に何かあったとき命が助かるんだな」と早合点。これは俺もやらねばと、家財道具を売り払って二両を工面し、毎日橋の上でその機会をうかがうようになりました。 与太郎が橋を渡っていると、欄干にもたれて泣いている女を見つけました。「それそれ、身投げする女だ」と勇んで駆け寄り、二両を差し出します。ところが女は「二両じゃ足りない、どうしても五両なければ困る」と言います。与太郎はとんちんかんにも「それじゃ、二両あげるから、今日の身投げはへそまでにしておきなさい」と返しました。 「身投げ? 違うわよ。歯が痛いから、戸隠様に願をかけているんだよ」と女。与太郎が「だって袂に石をいっぱい詰め込んでるじゃないか」と指さすと、女は袂から取り出して見せました。「これは石じゃない、戸隠様に納める梨だよ」。早合点の与太郎、ただ苦笑いするしかありませんでした。 『佃祭』が語り継がれてきた理由、おわかりいただけたでしょうか。見知らぬ人への小さな情けが、巡り巡って自分の命を救う。そして感動的な場面のすぐ後には、幽霊騒動、さらに早合点の与太郎という、たたみかけるような笑いが待っている。泣かせて、驚かせて、最後に笑わせる——これぞ江戸落語の粋というものです。 この噺を誰かに話すなら、ぜひこの三点を。ひとつ、三年前の五両の情けが、乗るはずだった終い船の転覆から自分を救う因果応報の構造。ふたつ、何も知らず帰宅した次郎兵衛が「幽霊だ」と長屋中を騒がせる爆笑シーン。そしてみっつ、早合点の与太郎が同じ真似をして空回りする、最後の笑いのオチ。もっと深く味わいたい方は、ぜひ名人の高座の音源でお聴きください。